波長でつながるふたり──🌸
“身体と心の結び”
💞
私は、自分で言うのもなんですが、
たぶん「純粋」なのだと思います。
そしてその“純粋な自分”を、
誰かに合わせて曲げたり、消したりすることはしたくない。
「自分がスキな自分を生きる」──
それが私のポリシーだから。
純粋は、言い換えれば清さでもあります。
でも、恋愛における“清さ”について、
私はずっと小さな疑問を抱えてきました。
今日は、その疑問と、
そこから見えてきた“心と身体の結び”の気づきを
少しお話ししたいと思います🕊️💞
🕊️第1章:きっかけは、ふと目に入った神さまの名前でした
今回のテーマを考えるようになったのは、
ほんの小さな偶然からでした。
先週、仕事先で目を通していた資料の中に
「スサノオ」という神様の名前を見つけたのです。
神社参詣が好きな私は
この神様の性質や、
クシナダヒメさんと対になる“夫婦神”であることも知っていましたが、
その時は特別に響いたわけでもありませんでした。
でもその夜──
ふと胸の奥で、“ストン”と小さく落ちた感覚があったのです。
「あれ……?
そういえば、スサノオさんって──
どこか“ある人”に、似てる。」
そんな直観のようなものが、静かに湧き上がってきました。
その瞬間から、
おふたりの神様がスッと身近に感じられるようになりました。
スサノオの“誠実で、まっすぐな熱さ”、
その熱さをやわらかに受けとめるクシナダの“芯のある優しさ”。
そして、ふたりを包む“守り・守られる関係のあたたかさ”。
そのどれもが、わたしがふと
「この人、素敵だな…」と感じたときの
あの静かなときめきと重なったのです。
気づけば、
スサノオさんとクシナダヒメさんを通して、
自分の恋愛観の奥を
そっと見つめる時間へと引き込まれていました🪄
この気づきのお話しは
前回の記事にも少し綴っています。
もしよかったら、あわせてどうぞ🕊️💞 → こちら
🕊️第2章:私が向き合うことになった、心の端の小さな“?”
スキな人……というより、
生きているうちにそう何度も出逢えないであろう
“波長でつながる人”。
もしそんな唯一無二の相手と恋愛関係になり、
心が結ばれるのなら、
それは迷いなく「清い」と感じられる。
でも、身体の結びとなると──
わたしはずっと、どこか受け入れきれない気持ちがありました。
心が重なることは清いけど、
身体が重なることは清いのだろうか?
それは“欲”ではないのか?
純粋な自分の想いが、汚れてしまうのではないか?
そんなふうに、
腑に落ちない小さな“?”を、胸の奥に持ち続けていたのです。
それは、
世間がつくりあげた“身体の結び=欲を埋めるいやらしさ”というイメージを
わたし自身が強く嫌悪していたから。
わたしは、
乱暴に扱われたくないし、
欲望のために“使われる”ように感じるのも絶対にイヤです。
そして同じように、
わたしも相手を乱暴に扱いたくない。
相手の心や身体を、大切に、大切に、扱いたい。
だから、
“身体の結び”がどうしても清いものだと感じられなかったのです。
さらに、わたしは
子供を授かることを望んでいません。
それは物心ついた頃から今でも変わらない、
はっきりとしたわたしの意思です。
そんな思いも重なって、胸の中に違和感を抱き続けていました。
「身体の結びって、“欲”でしかないんじゃないのかな?」
もしそうなら、
身体の結びは清くないのだろうか?
じゃあ、何のために存在するんだろう?
私が信じたくないもののためだけに、存在しているのかな?
その答えがどうしても腑に落ちなくて、
ずっと、わたしの中で受け入れられない、
ひっそりとした心地わるい“問い”だったのです。
でも──
もし、波長でつながる“彼”の純粋な愛情に触れたなら、
その疑問は静かに自然にほどけてしまうのかもしれない。
彼と出逢い、
彼の誠実さに惹かれた私の胸の反応を思えば、
もしかしたら、
心と身体が同じ方向へ向いていく瞬間があるのかもしれない。
そんな存在と引き寄せ合えたら、
それはどれほどロマンティックで、
どれほどしあわせなことなのだろう──。
もし、身体の結びが “ただの欲”ではなく、
心の安心が身体と連動するような現象なのだとしたら──
わたしのずっと抱えてきた違和感は、
別の見え方に変わるのかもしれない。
わたしはよく、
大切なピヨちゃんに包み込まれる安心の感覚を思い出します。
その、あたたかくて、柔らかくて、
粒子のひとつひとつが“安心”でできたような時間。
もし波長でつながる彼との結びも、
あんなふうに
心の奥まで「大丈夫」って包まれる感覚だったら……
わたしはきっと、それを清く愛おしいものとして
喜んで受け入れてみたいとさえ、思いました🕊️
🕊️第3章:純度が高かったから、ズレていた
わたしが感じていた違和感は、
実は“自分の純度が高かったから”だと、はっきり分かりました。
わたしは、ものごとをとても純粋に受け取るタイプです。
世の中には
身体を「欲」や「消費」や「支配」のために扱う価値観があり、
それが“身体の結び”のイメージとして広く流れている。
でも、それは
わたしが信じたい「結び」とは真逆のもので……
だからこそ、
わたしの中でズレが生じていたのだと思います。
わたしが選びたいのは、
波長でつながる彼とだからこそ生まれる
支配でもない
欲でもない
消費ではない
乱暴でもない
お互いを決して傷つけない
“心で触れるような身体の重なり
ただそれだけなんです。
わたしの不安や疑問は、
出会うべき人が現れたら
きっと自然に静かに溶けていく。
そしてその時は、
理屈ではなく
身体と心の同時の認識
として訪れるのでしょう。
“あ、この人となら清いまま結べる”
そう、迷いなく分かるのだと信じています。
🕊️第4章:身体を持って生まれた意味と、“清い結び”の本質
ただ、
“心で触れるような身体の重なり”
だけがそこにある。
身体は“欲のための器”ではなく、
心で感じている愛情を、
最後に静かに受け取る場所なのだと思います。
巷ではよく、
「身体の結びは子孫繁栄のための本能」と言われますが、
わたしはそうは感じません。
子供は“二人そのもの”ではありません。
だからこそ、
「子供を望むから」ではなく、
「この人と惹かれ合ってしまったから」
生まれる結びのほうが、清くて美しいと感じています。
深くつながる相手とは、
本能でさえも優しく静かに働きます。
その本能は「子孫を残す」という目的ではなく、
“あなたともっと深く分かち合いたい”という
魂の願いに近い動きなのではないでしょうか。
そして身体は、
言葉や抱きしめるだけでは伝えきれない
「大切に思っている」
「あなたを受け入れています」
という愛を、そっと表現するための場所でもある。
身体の結びが清いかどうかを決めるのは、
相手との波長・尊重・心の重なり方です。
それは欲でもなく、
汚れでもなく、
乱れるものでもない。
ただ、
“波長でつながる彼とだからこそ生まれる、
やさしい本能の応答”
なのだと思います。
そう思えるようになって、
胸の奥にあった違和感は あたたかく溶けていきました。
そしてもう一つ──
恥ずかしさについて。
“清い結び”を想像するときに生まれる
あの、静かな恥ずかしさ……。
それは、いやらしさや嫌悪感ではなく、
大切にしたい・丁寧に触れたいという誠実さの証だと気づきました。
恥ずかしさが残るということは、
軽く扱っていないということ。
尊いものとして守りたいということ。
だから、
恥ずかしいままでいい。
そのままの自分でいい。
もしかしたら──
出会うべき彼の純粋な愛に触れたとき、
その“清い恥ずかしさ”は
そっと安心へと変わり、
自然に彼へ預けられるのかもしれません。
🕊️第5章:心と身体が同じ方向を向く瞬間
波長でつながる相手とは、
まず“心”のほうが先に動きます。
見た目や言葉や条件ではなく、
もっと静かで深い部分で、
「この人の在り方が、わたしの心を安心させる」
という感覚だけが、小さく灯る。
それは、恋の衝動というより、
魂の奥がそっと頷くような、
とてもゆっくりとした惹かれ方です。
心がその人の方へ向くとき──
身体はまだ動きません。
けれど、
その信頼が少しずつ身体へ降りてくるときがあるのです。
触れていなくても、
距離が近づいただけで分かる
“緊張ではなく、安らぎの反応”。
身体が固くならない。
むしろ、やさしく呼吸がひらく。
これは欲でもなく、興奮でもなく、
“心の安心が身体へ届いている状態”。
その瞬間、 心と身体が同じ方向を向きはじめます。
“求められているから応える”のでもなく、
“自分から求めようとする”のでもなく──
ふたりの心が
同じ高さ、同じ温度で
そっと並ぶ。
そこに無理はなく、
どちらかが引っ張るのでもなく、
ただ自然に“重なりへ向かう空気”が生まれる。
そしてあるとき、
言葉より前に、
理由より先に、
“この人となら、清いまま結べる”
という静かな確信が胸に落ちてくる。
恥ずかしさは残っているのに、
拒絶ではなく、
安心のほうが勝つ。
身体が反応するのではなく、
心と身体が
ひとつの頷きになる。
その瞬間こそが、
“心と身体が同じ方向を向く瞬間”
なのだと思います。
結びは、目的ではありません。
その瞬間がふたりに訪れるとき、
結果として、
波長がやさしく寄り添った先に、
ふたりの間にそっと結びが芽生える。
身体は、
心で受け取った愛情を
最後にあたたかく表現する器。
だから、
心と身体が調和したときの結びは──
欲ではなく、
乱れでもなく、
ただひとつの
“清さの象徴”。
“あ、この人となら大丈夫”
“この人となら清いまま結べる”
その静かな確信が胸に落ちる瞬間。
ふたりの心と身体が自然と同じ方向へひらいていく──
そんな時間がもし訪れるなら、
わたしもその感覚にそっと触れてみたいな……と、
静かに思っています🫧
🌸第6章:気づきが人生の流れを変えるとき
わたしはこれまで、
自分の心のことはもう十分理解しているつもりでした。
「ここまで気づけているのだから、
もうそれほど大きな発見はないかもしれないなぁ」と思っていたのです。
でも今回──
スサノオさんの名前をふと見かけ、
心の端に放っておいた「イヤだな」という違和感に触れ、
そこから“身体の結び”への価値観を腑に落ちるまで見つめつづけたことで、
想像以上に大きな気づきを得ることになりました。
気づく前のわたしと、
気づいたあとのわたしでは、
“愛の深さ”も“愛の質”も
まったく違っている、豊かになっていると感じます。
もしこの先、
波長でつながる彼と出逢ったとしたら──
わたしが彼に渡せる愛も、
彼から受け取れる愛も、
きっと今までの自分では触れられなかった
もっと深い場所に届くのだろうと思います。
人生の中には、
“静かに世界線が切り替わる瞬間”があります。
今回の「身体と心の結び」の理解は、
まさにその瞬間でした。
気づきは、不意に訪れる。
けれど、
実は必要なとき、心が整ったタイミングに静かに訪れるのかもしれない。
そしてこの気づきは、
もっと豊かに、想いのままにひらいていく。
わたしの人生に、そっと大切な意味を灯してくれる──
そんなふうに感じています。
🫧あとがき:ほとんどいない“その人”でいい
「身体と心の結び」というテーマに導かれるように向き合ったとき──
わたしは改めて、でも確実に気づきました。
清い結びを交わせる相手は、ほとんどいなくていい。
というより、
最初から “ほとんどいない、その人だけ” の話だった。
波長で惹かれ合う人は、
もともと多く存在するはずがない。
だって、
波長が一致して引き寄せ合う相手は
ひとりでいい。
そのひとりこそが、すべて。
そして波長が合うなら、
その“ほとんどいない、その人”に
ちゃんと出逢える。
それがいい。
💖
この場所は、あらゆるラベルにしばられない存在たち──
わたしたちのように、カテゴリに属さない“いのち”とともに、
トキメキのままにふうわり集う、小さなやさしさの空間です🫧
「自分がスキな自分」でいられることを、
いっしょに大切にしていけますように…🕊️
